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ATSUHI NAKASHIMA

中島篤

2017.03.19

Creator

- 中島さんがデザイナーを志したきっかけは何でしたか?

 

曽祖父が水墨画家だったこともあり、絵を描くことが好きで幼少期は画家になりたいと思っていました。

 

ただ、画家で食べていくことは難しいと中学生の頃に感じ、当時洋服に興味を持ち始めたこともあってファッションデザイナーを目指すようになりました。

 

洋服に興味を持ったのは、ヤンキーブームからファッションに変わっていく時代の変わり目だったことがきっかけ。僕の時代はヤンキーブームで、龍の刺繍が入ったヤンキー風の服装をしていました。

 

同時期に、ファッション雑誌のMen’s nonno や Boonが出始め、周りがまだヤンキー風の格好をする中、ファッションに目覚めました。

 

工業高校に進学してから、デザイナーを目指したいと思いました。ただ、父親の猛反対で普通に就職するよう言われていたので、卒業後はファッションと関係の無い工場に就職しました。

 

それでも諦めきれず、1年後に辞めて名古屋にあるファッションの専門学校に入学しました。

 

在学中に影響を受けた先生がいて、自分はデザイン科だったのですが、その方はパターンの先生でした。

 

洋服は絵じゃないし立体なので、デザイナーでもパターンを理解していなければならないと言われ、就職は縫製工場を勧められました。

 

新聞で見つけた九州の工場で、2年半程働きました。

 

 

- 縫製工場では何をされていたんですか?

 

朝8時から夜中まで、縫い子さんをしていました。その縫製工場がすごく地獄で…

 

さらにその後、中国の工場に赴任することになりました。本当に田舎の工場で、そこに暮らしたくなかったので、繁華街から毎日1時間かけて出勤していました。

 

一番屈辱的なことがあって、僕が暇そうにしていたら”ラインに入れ”と言われ、ラインで現地の人と一緒に作業させられていたんです。

 

さすがに無理だと思って、上司に言って日本に帰してもらいました。

 

- 帰国してからの経緯は?

 

縫製工場で技術を学んだと感じ、次はどうしようかと考えていた時に、オンワードファッション大賞を知り、応募したところたまたまグランプリを受賞しました。

 

その時審査員だったジャンポール・ゴルチエの目に留まり、そのまま渡仏して彼の下で働く事になりました。

 

午前中に語学学校へ行き、午後はゴルチエのアトリエで働くという生活でした。

 

インターンで1年経ったところでお金が無くなってしまい、帰国しようかとゴルチエに挨拶に行ったところ、給料をもらっていなかったことに彼が驚き、それ以降給料をもらえるようになりました。

 

- 日本に帰るきっかけは何でしたか?

 

フランスに行って6年程経ってしまい、自分のブランドも立ち上げたいと考えていた。

 

ブランド立ち上げのために、日本に帰りたいとゴルチエに話しました。それまでバッグのデザインはしていたのですが、洋服はゴルチエ本人が行っていたこともあり、彼から”とても残念だ。洋服のデザインをさせてあげられなくて、後悔している”と言われました。

 

辞める事になった一週間後に社長から呼ばれ、“新しいラインを作るから、そこでデザイナーをやってくれ”と言われ、結局もう1年残ることになりました。

 

その後日本に帰ってきて、1年ほど準備したあとに東コレでブランドを発表しました。

 

- 日本で活動する理由は何ですか?

 

日本のものづくりを海外に持って行きたいという思いが一番強いですね。

 

中国の工場で働いていた事や、ゴルチエの下で働いていた経験が大きいです。

 

向こうの技術も凄いが、自分も工場で学んだ技術とデザインのスキルがあったので、日本人でも(海外で)やれるかな、と。ゴルチエの下にいた時も、職人さんに一目置かれていました。

 

- 中島さんが今後目標にしていることは?

 

昔からの夢はパリコレだったので、一生の間に一度は出したいと思っています。

 

最近のニュースになるのですが、DHLの国際グランプリで受賞して、ミラノコレクションでランウェイを2シーズン発表出来ることになったんです。

 

繊細さや物づくりのクオリティーといった日本製の良さを、クリエーションを大切にしている海外にアピールしたい。最新技術を使った企業さんとのコラボレーションもしてみたいですね。

 

- JAFIC PLATFORMについてどう思いますか?

 

デザイナーも苦しい時代なので、感謝しています。自分も企業とのマッチングや産地とのコラボレーションなど、実際に色々な機会をもらいました。

 

サンプル工場や生地屋さんなど、紹介してもらえるとデザイナーとして助かります。小ロットだと高かったり、納期も優先してもらえないこともあるので。

 

生地の展示会等に行っても、自分は沢山いるうちの一人なので、相手にされないこともありますが、そういう部分で繋げて貰えると有り難いです。やっぱり、人の紹介って自分が誰かもきちんと伝わるし、大きいかなと。

 

また制服のデザインだったり、車の会社だったり、自分もファッション以外の部分でもデザイナーとして活動したいという思いはあります。

 

- 今の日本のファッション業界に対してどう思いますか?

 

 またデザイナーを目指す学生に対して、どんな人物を求めていますか?

 

日本のアパレルがビジネス優先になってしまうのは、しょうがないことだと思うんです。でも売れるものだと、どうしても海外の二番煎じであったり、ファストファッションの影響で消費額も下がってきている現状があると思います。

 

日本のアパレル企業にも、日本らしいものを発信していくような所が増えてくると良いなと感じます。

 

ただこれから、また良い物が売れる時代に変わってくる気配はあるので、良い物が評価されて売れるような業界に、アパレル業界だからこそ変わっていって欲しいと思います。

 

色々な物を見て、多様な感性を持っている人は良いなと思います。

 

情熱を持って、デザインや物づくりを一生懸命勉強して欲しいです。

 

- 最後に、今後どのようなブランドにしていきたいですか?

 

日本のものを世界に持っていくというのが目標で、今後も日本で活動していくつもりです。

 

ただ、以前から海外志向が強かったので海外の展示会には沢山出展しているので、海外で評価されたブランドとして、日本に逆輸入していくというのが理想です。

 

繊維工場で苦労して働かれた経験や、ゴルチエの下で働かれた経験など、その長い下積み時代が、現在のATSUSHI NAKASHIMAというブランドの確立や、クリエーションに繋がっていることが分かった。

 

海外に左右されがちな現在の日本のアパレル産業。そこで今一度、ものづくりの良さ・繊細さという、日本の強みを見つめ直す機会が若者にも多くあれば、中島さんも言うように良いものが売れる時代に繋がるのではないかと感じた。

 

また中島さんの人柄や仕事の仕方が、周囲に理解され愛される要因である事も、インタビューを通して感じる事が出来た。

 

ミラノコレクションでは、ATSUSHI NAKASHIMAらしい立体的で繊細なアイテムに要チェックだ。

 

 

 

ATSUSHI NAKASHIMA 2016SS “DISCOVERY”をみて

 

 

 今期のコレクションはスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』からインスパイアされている。テーマの“DISCOVERY”も映画に出てくる宇宙船「ディスカバリー号」にちなんでいるようである。

 ランウェイ中央の空間には正八角形のオブジェが5つ並んで浮かんでおり、光が放たれた際にそれらを正面から見ると、まるで宇宙空間に吸い込まれていくようだ。

 スペースシャトルや宇宙船などの白・黒を基調とし、差し色としては赤・カーキが取り入れられている。また、ポイントとしてはゴールド・シルバーが取り入れられ、 モダンでメカニックな印象を与えた。

 素材にネオプレンを使用することで、独特なハリ感と立体的なシルエットを表現し、モノトーンのスニーカーやメタリックなサンダルと合わせることでスポーティーなルックに仕上がった。

 目を引いたのは、モノトーンを基調とする切り替えの構築的で近未来的なデザインで、ソックスやネックウォーマー、アームウォーマー、指先を隠すフィンガーウォーマーや口元のマスクは外界から肌を守るといった機能的な側面と配色等の装飾的側面の両方を兼ね備えている。

 映画の世界観をモダンかつスタイリッシュな形でファッションに落とし込んだ今回のコレクションは、ショーの会場にいる人々をATUSHI NAKASHIMAの世界観に引き込むような作品と演出であった。

 

篠崎莉奈

 

1994年生まれ。東京外国語大学言語文化学部所属。

 

慶應ファッションクリエイター デザイナーを担当。

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