アパレルをはじめとする大手・中堅企業の「ビジネスのプロ」とクリエイション企業である「ものづくりのプロ」が出会うことで新たなビジネスモデルを創出しませんか?
私たちは日本のアパレル産業発展のため、「JAFIC PLATFORM」を運営しています。
現在のクリエイター登録数44件
現在の企業登録数100件
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天津 憂
2017.03.10
Creator
天津の「A」
血液型の「A」
Aprilの「A」
Asia出身の「A」
かつて拠点としていたAmericaの「A」と
人間の体温を100度とする温度の単位「華氏Fahrenheit」を組み合わせたのがA Degree Fahrenheitの名前の由来である。
天津さんの体温感で物を表現・デザインし、全てのシーズンのテーマは温度を基に想起されている。
- 天津さんがデザイナーを志したきっかけは何でしたか?
元々絵を描いたり、そういった職業に就きたいという思いは子供の頃からあったが、自分を表現する中で一番適していたツールがファッションだった。
自分が着ることで、すぐに表現することが出来たからだ。
それがデザインの勉強をしたいと思うきっかけ。
また、母親が針子であったことにも影響を受けた。
- ブランド立ち上げまでの経緯、きっかけはどのようなものでしたか?
在学中から起業し、衣装デザイナーとして活動を行っていた。
入学当初はブランドを立ち上げる志はあったが、デザインを学ぶ中でパターンの面白さや、人対人の相手の為に服を作ること、台本を読みながらイメージし制作する方が面白いと感じ、衣装デザイナーを目指すようになった。
しかし、日本には衣装デザイナーが少なく、スタイリストがそういった要素を収集した上で衣装屋さんに仕事を振るだけで、そこにはクリエイティブな動きが全く無く、その実態が寂しかった。
卒業後、仕事を受けるためにまずはアメリカに行こうと思った。何のツテも無かったがブロードウェイやハリウッドなどがあるから、という安易な考えだった。
- それからブランドを立ち上げるまで、どういったプロセスでしたか?
自分のデザイナーとしてのテイストを知らしめるものがブランドであるので、まずはブランドを確立させ、有名になる必要があった。
1年目にお金が無くなった時期があり、口座には200ドルしか無かった。
帰りの飛行機のチケットも買えないまま1年が続き、英語も話せない状態でアトリエを周り、自分を売り込む営業活動に奔走していた。
1日10円で生活し、当時75kgほどあった体重が52kgまで減った。
お金も無くどうしようかと考えていた時に、GEN ARTというコンテストの話を聞いた。
今はもう無いコンテストだが、その前年にはアンリアレイジがグランプリを受賞していた。
そのコンテストに学生時代の作品をブラッシュアップして出品したところ、グランプリを受賞した。
そして、賞金を獲得したことでVISAが取りやすくなったこともあり、アトリエから声が掛かった。
2年目には、当時学生だったJen Kaoに、卒業後にブランド立ち上げを一緒にやらないかと誘われ、パタンナーとして参加することになった。Jen Kaoにはその後4年間在籍していた。
- NYでの生活の中で、日本に帰ってくるきっかけ何でしたか?
アメリカで6年を終えようとしていた当時、29歳だった。
30歳までにコレクションを発表したいという漠然とした思いがあり、JFWで行っていた2010年の“SHINMAI Creator’s Project”の第二回に選出されたことによって、居心地の良かったアメリカを離れ、再び日本に戻ることになった。
- 渡米を経て、天津さんが感じた日米での違いはありますか?
クリエーションに関しては、大きな違いは無いと思うが、生地などに関しては日本の方が良い。アメリカではカタチから入ることも多かったが、日本では生地からデザインを発想することも多い。
プレゼンテーションに関しては、日本人の能力の弱さを感じる。
アメリカでは、スキルが無くてもプレゼン能力があるので、実現さえすれば評価される。
しかし日本では、スキルをつけてから実現しようと思うので、時間がかかる。
日本人は完璧主義が強いため、一歩行くのが遅いと感じる。
- JAFIC PLATFORMについてどう思いますか?
キックオフイベントの際に行っていた、ビンゴを使ったマッチングは面白かった。
やはり、参加していて楽しさや面白さを感じる機会になると良いかと。
お互いが話せず終わってしまう、というのは勿体無い。
しかしデザイナーから営業することは難しいので、企業が踏み込みやすいカタチだと、関係作りがしやすくなるかも。
ただ、デザイナーに委託しようと考えた際に、最終的には”知っている彼にしよう”と知人から選ぶことも多いので、出会いの場として社交的なパーティーも大事な場だと思う。
- 天津さんは、自分の世界観を語れると思いますが、一方で積極的に自分を押し出せないクリエイターの方についてはどう思いますか?
デザイナーの皆さんには、まずJAFICの催しに参加してみることが、マッチングなどの機会を得るきっかけになると思う。
クリエイターも新しい人を入れていかないと、企業から見て新鮮味や新しい発見が無いし、企業側もアパレル以外の業種もいると面白いと思う。
- 今のファッション業界に対して言いたい事とは? (疲弊している業界とか言われていますが…)
よくある質問ですよね(笑)。
全然無いです。恐れ多いし。
ただ、学校に講演に行っても、みんな消極的。
ブランド立ち上げたいっていう子が殆どいないし、雑誌も見てない、興味が無い子が多い。
飯を削っても服を買う、みたいな学生は少ないんじゃないかと思う。
- 今後やりたいことは何ですか?
もの作り全般ですね。空間全体のデザインや、衣食住などもやってみたい。
服に関してはやはりレディースの方が面白い。
メンズはものが良くなくてもウンチクを語れば買ってくれるが、レディースはトレンドや流行り廃りの中でデザインするということが面白い。
また日本だけでなく、様々なコンテストなどにも出品したり、機会を見て海外には進出するつもり。
NYにはいずれ行くと思っているが、近い将来だと思っている。
そういうのも含めて、ハナエモリのデザイナーを務めているのもある。
A Degree Fahrenheitの由来を知ってから、毎シーズンのコレクションを見返してみると、「温度」という着想がとても面白く、私たち自信の体温を通して得た経験的なイメージと重ね合わせることができ、コレクションをより楽しむことができるのではないでしょうか。
また、服やファッションに傾倒する姿が最近の若者にはあまり見られないとおしゃっていましたが、天津さんの在学中の起業や卒業後の渡米のような大きな決断をする機会は私たちにはやはり少ないような気がしました。
天津さんの自分自信への信頼や積み重ねてきた経験が、6年間に及ぶアメリカでの活動や現在も続く活躍を裏付けているように感じたインタビューでした。
Hnanae Mori manuscrit 2016/ SS を観覧して
「五大湖(Great Lakes)」をインスピレーション源に、そこに広がる雄大な自然、息づく動植物、そして自然と共存する都会に、「発想と想像」の力を拡げたという。
透け感のあるオーガンジー素材を用いた服から始まり、淡いピンク、濃いブルーへと変化していく。静かな湖が連想させられる。全体的にフレアを用いており、優雅さと女性らしさが出ていた。
中盤からは様々なテキスタイルを用いた服が多く見られた。特にハナエモリの代表的なモチーフである「蝶」柄のレース、蝶の形に配置されたビジューが印象的だった。
また、ヘッドホンを付け、片手にはスマートフォンを持つモデルも登場。これは、パナソニックとコラボレーションしたヘッドホンで、2016年1月に発売が予定されているもの。デザイナーの天津さんがデザインを監修したという。
女性らしいディテール・日本らしさを感じる紐のベルトとデジタルの融合で、エレガントさは忘れずにいながらも、個性的な女性を演出するコレクションだった。
橋爪彩夏