アパレルをはじめとする大手・中堅企業の「ビジネスのプロ」とクリエイション企業である「ものづくりのプロ」が出会うことで新たなビジネスモデルを創出しませんか?
私たちは日本のアパレル産業発展のため、「JAFIC PLATFORM」を運営しています。
現在のクリエイター登録数44件
現在の企業登録数100件
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専務取締役 白浜利司子氏
2017.04.06
Creator
―デザイナーを志したきっかけを教えてください。
そもそも、アーモンド・アイという会社は母が起業したもので、私たちが二代目になります。
私の通っていた学校のバザーで母の作る商品が人気で、売上金をシスターに献金する際に、母は人に感謝されること、物を売る楽しさを感じ、最初は趣味として1967年にブティック「ミック」をスタートしました。
このブティックがアーモンド・アイの前身になります。
母のそのような姿を見て、私もそちらの道を漠然と考えていました。
世の中を見る目や、一般教養を身につけてからでも遅くないと思い、四年制の大学へ進学しました。
大学卒業後は、バンタン研究所のコーデイネーター科に1年間通い、パターン、デザイン、マーケティング、シューティングなどを全体的に学びました。
―卒業後はどのようなお仕事をされていたのですか。
1980年からアルファ・キュービックという会社で修行をしました。
新入社員で一番高いハウスブランドのデザイナーを勤めました。
広告にお金をかけたり、当時の日本のアパレルでは先進的だったと思います。
3年半働いたところで母から帰ってこいと言われ、戻りました。
卒業後すぐに会社に入るべきでないという私の思いと、仕事が分かってくる時期でもあり、とても悩みました。
―「RITSUKO SHIRAHAMA」のブランドを立ち上げる経緯を教えてください。
アーモンド・アイに入社した頃は、自分のブランドを持つという気持ちはありませんでした。服を作りたいという気持ちの方が強かったですね。
1984年に「RITSUKO SHIRAHAMA」をブランドアップし、展示会を少しずつやっていました。
素材を尾州で作ったり、小さな工場に縫製を依頼しながら、小さなブランドからスタートしました。
最初は自宅から初めて、千駄ヶ谷のマンションを転々とする形でオフィスを構えていました。
1970年代のマンションメーカーが流行っていた頃です。
―1988年の東コレに参加した頃は、ご自身のブランドに対する考え方はどのように変わりましたか。
大内順子さんとパリの記者だった繊研新聞の織田晃さんが展示会にいらしてくれて、ショーをした方が良いと言ってくださったのがきっかけです。
当時ショーをやることは普通の事ではありませんでした。
しかし、初めてそういう角度から自分のビジネスを見た瞬間でもありました。
1985年には繊研新聞が主催する、第1回新人クリエイターズコレクションにも参加しました。
―パリ・ミラノでの展示会出展や販売など、国内に留まらない海外での活動について。
ショーを始めてからは毎シーズン発表していましたが、ある時、世界に出て自分のクリエーションを試したいと強く思うようになりました。
分からない事を知り合いのバイヤーやジャーナリストに聞く中で、一番参考になったのが同業の菱沼良樹さんのアドバイスでした。
展示会からスタートした方が良い事や、プレスエージェントについてなど、こと細かく親切に教えてくださいました。
―海外に出てみて、ご自身でどのような実感がありましたか。
知らない世界で、とってもワクワクしました。
自分の商品をトランクに詰め、オーガナイザーに会いに行けと言われる人には、すぐに会いに行きプレゼンをするような状態でした。
大きいサロンに出展し始めてから、色々な国のバイヤーと、自分の商品やファッションについて話す事が、とてもエキサイティングでした。
また、相手が思っても見ないような着方をしたり、思ってもみないセレクトをしたり。
―仕事をする上でのやりがい、モチベーション、楽しみやこだわりは何ですか。
自分が作りたいものに関する、最初の問題がコストでした。
自分たちの商品の値段がサンローランと同じくらいだということに初めて気がつき、コストを抑えるために中国での生産を本格的に始めました。
クリエーションの強いものとして保ちつつ、中国で生産する方法には悩みましたが、加工場のパートナーを見つけ、パリの市場で通用するようなコストが実現しました。日本の市場でも喜ばれましたね。
やりたいことから順番にクリアしていくと、思いがけないような結果と価値が生まれる事を実感しました。
また母の後ろ盾もあり、経営が苦しい時でもショーができるように、お金を捻出してくれました。
―ビジネスとクリエ―ションのバランスについてどうお考えですか。
展示会だけをやっていると、時々クリエーションの追求がぼんやりしてしまうので、自分にショックを与えたいなと思っています。
人と組んで何かをしたり、大きな発表をすることで、自分が引っ張り上げられるような感覚になると同時に、他業種と関わることによって視野が広がります。
クリエーションの可能性も広がり、凄く楽しいです。
展示会で売ることはベーシックで必要な事ですが、プラスアルファのアクションも大切です。
―今後どのようなブランドにしていきたいですか。
社会貢献と一言で言っても小規模ですが、その都度感じたことを形にして発表しています。例えば間伐材や食とモードに関することをインスタレーションで発表するなど。
自分の関心があるところに寄付しながら、問題提起的に何かを作ってコレクションを発表するという事をしています。
自分のクリエーションを通じて何かを伝えることで、それについて考えるきっかけになれば良いと思います。
その時々で違うけれど、何か自分に引っかかる事があれば、それはやっていきたいなと思います。
―クリエイターの立場としてJPFの存在意義をどう思いますか?
特に若手にとっては、異業種の方々と知り合う良いきっかけにもなりますので、良い取り組みだと思います。
RITSUKO SHIRAHAMAはJPF立ち上げ当初から登録していると同時に、会員企業にアーモンド・アイとして登録もしています。
―今後クリエイターを目指す若者にエールをお願いします。
クリエイターは時代の壁を読みながら、感じながら走り続ける仕事だと感じています。
今は日本のデザイナーが世界に進出できる土壌は整っているので、やる気になればすぐに海外に行けます。
ただ、いつどこでどうやるかは、世界情勢を見ながら考えなければなりません。世界情勢で取引先はとても変わってきますから。
―ご自身のキャリアを振り返って、業界に興味のある若者に向けてアドバイスを教えてください。
一人ではできないことなので、周りを巻き込む必要があります。その為には自分が物凄く楽しんで努力をしなければ、周りは乗ってきてくれません。
自分のビジョンを明確にし、熱意を伝えなければならない。それは、どんな仕事にも言える事です。
それには言葉を使うので、苦手でも直接伝えるというトレーニングをしなければいけないと思います。
若手クリエイターの方々のインタビューが続く中、約40年近くデザイナーとしてファッションに携わってきた白浜先生のインタビューをさせていただきました。
私たちが知り得る現在のファッションのあり方とはまた違う環境や仕組みの中、世界に目を向けご自身のクリエーションを追求し、世界情勢を見極めて現在まで作品を発表されていらっしゃいます。
そこにはご家族の支えやクリエーションを追求する為の、ご自身のフレキシブルかつブレない明確なビジョンのようなものを感じました。
お話を聞いている私たちまで、とてもエキサイティングな気持ちになりました。
お忙しい中ありがとうございました。
篠崎莉奈(東京外国語大学 2年)